帰宅困難者になった日
東日本大震災の発生から4年が経過し、各地で開催された慰霊の行事のニュースを見ていて、ふと4年前の自分の事を思い出した。
地震の翌日、勤務先の福島市から自宅の仙台までなんとか帰り着いたものの、月曜日には車に布団を積んで再び福島の会社に戻り、そのまま4月の上旬まで泊まり込んで帰れない日が続いた。
仕事が終わって寝る前の短い時間を使って、記憶が新たなうちにと思って、地震発生から自宅に帰りつくまでの顛末を書き綴り、mixiの日記に投稿した。
今日、そのことを思い出し、久しぶりに読み返して、その時の記憶が蘇ってきた。
きっと、もっと大変な体験をした人も多いと思うけど、震災の記録の一つとして、当時のまま転載します。
帰宅困難者になった日(1)
3月11日の地震当日は、福島市内の会社にいた。
14時46分。マナーモードにしておいたはずの携帯から、甲高いビープ音が突然響いた。
携帯を開くと、「緊急地震速報」の文字が目に飛び込む。
そして「宮城県沖で地震発生 強い揺れに備えてください。」のメッセージを読んだ。
「え?」と思った次の瞬間、強い揺れに見舞われた。仙台市宮城野区の自宅で経験した、2008年の岩手・宮城内陸地震の揺れを上回る強い揺れに、「やばい」と思い、2階へ駆け上がった。
2階には経理の女性職員が一人だけで、部屋に飛び込むと「どうすればいいの!」と悲鳴を上げている。とにかく事務机の下に押し込んで、自分も近くの机の下にもぐりこんだ。揺れは強く長かった。収まりかけたかと思うとまた強くなり、波のような揺れに襲われた。
ようやく揺れが収まり、部屋の中を見渡すと、書棚が一つ、女性職員の机に倒れて引っかかっていた。倒れなかった書棚からも書類のファイルが床に落ちて散乱していた。
1階へ降りていくと手前の普段使っている事務所は多少書棚が移動したり、机の上の物が落ちたりした程度で、たいしたことなかったのかな?と思う程度だった。その奥の書棚や大型のプロッタが置いてある部屋を入ると、書棚から本や書類が落ちて散乱し、地形図を入れる2段重ねの大型のケースが傾いて、中から地形図が飛び出していた。ケースを載せていた鉄製の台は傾いて、4本ある足の1本が壁に突き刺さっていた。
物置に入ると2列に並べてあったスチールフレームの棚がねじれて倒れ、サッシのガラスを突き破らんばかりに傾いていた。
唖然としているところへ、外出していた社長が戻ってきた。電気も停まり、暗くなることを考えて、片づけは月曜日にすることにして、とりあえず自宅へ帰ることになった。この時点では新幹線は止まっているだろうけど、まあ2・3時間まっていれば何とかなるだろうと甘い予測を抱きながら、福島駅まで送って貰った。
福島駅に着くと、すでに駅舎は閉鎖されて中に入れない。今夜中に復旧しないと聞いて、ようやく事態の深刻さが飲み込めてきた。
今日はもう帰れないと分かった時点で次の行動に移った。携帯のバッテリーが心細くなっていたので、充電できる電池を求めて停電しているコンビニに飛び込んだ。最後の一個の電池を確保し、どこに泊ることになるかわからなかったので、飲み物とパン2個も一緒に買った。
コンビニ袋を握りしめ、今後の作戦を練るためにもう一度駅まで戻り思案していると、「避難所は第四小学校です。」と市の職員(?)がアナウンスしながら歩いていた。それを聞いて避難所に行くしかないなと思い、第四小学校に向かった。
避難所である第四小学校の体育館に入ると、すでに大勢の避難者がそこかしこに島を作ってうずくまっている。仕方がないので、適当に隙間を見つけて、自分もそこにしゃがみこんだ。外はまだうっすらと明るいのに、体育館の中は停電で照明が点かず、真っ暗だった。
やがてすっかり日が落ちた頃、市の職員から「橘高校は明かりが点くので、そちらに移動してください。」との指示があった。職員の誘導に従って徒歩10分弱の橘高校へ移動し、体育館に入った。
体育館ではマットやパイプ椅子を使って、いくつか島ができた。比較的早く移動できたので、すいているマットの一角に陣取った。次々に周りも埋まり、あっという間に一杯になった。まるで一つの筏に乗って漂流しているかのようだ。
帰宅困難者になった日(2)
橘高校周辺だけなのか電気は問題なく使えたし、当初は水も使えて、水洗トイレも問題なく使えていた。
しばらくすると、夕食として缶入りのパンが配られた。ただし、自分で食事を用意していない人が優先だったので、話の種に食べてみたかったが、遠慮して他の人に譲った。それでも避難者全員には行き渡らなかった。
またしばらくすると、今度は近所の住民から善意の炊き出しの差し入れがあった。でも数に限りがあるのでまだ食べていない人優先とのこと。まだ食べていないはずの人が炊き出しに殺到したが、入手できなくて戻ってくる人が多かった。
充電用の電池を買ったものの、もともとリチャージャブルな仕様の充電池で、容量が少なかったのか折角充電した携帯のバッテリーも再び心細くなっていた。妻や実家に何度も電話したがつながらず、電池があるうちになんとか連絡したいと段々あせってきた。公衆電話が無料で使えるというのを聞いて、避難所を出て近所の公衆電話を探しに行った。
周辺は電気が使えるため、コンビニも照明が灯り、食料を買い求める人で一杯だった。公衆電話にも行列ができていて、しばらく時間がかかりそうだったので、他の電話を探しにコンビニを出た。別のコンビニが目に入ったのでそちらへ向かって歩いていると、道路の向かいのマンションの入り口に公衆電話を見つけた。辺りよりもやや暗くて目立たなかったためか、誰も並んでいなかった。これ幸いと思い、道路を渡り受話器を握った。
多賀城市の実家には電話がつながり両親の無事は確認できたが、妻の携帯にはなかなかつながらない。何度もかけてみたがだめだったので、仕方なく避難所に戻った。
断水するというアナウンスもあったが、橘高校に設置されているタンクが空になるまで、トレイも普段通りに使えていた。
何度か毛布も配られたが、そのたびに避難者が殺到するのを見て、貰いに行く気になれずに座っていた。数が少ないので二人で一枚を使うように指示されたが、中には何枚も確保してしまう人もいた。かと思うと余分に貰ってきたから、と毛布を譲ってくれるひとがいたので、同じ島にいた3人で使った。
日付が変わる前に、最後のバッテリーに望みをかけながら、妻に電話をするとようやくつながった。バッテリーが残り少なかったので早口になりながらお互いの状況を話した。妻は町の職員なので避難者の対応に追われてやはり帰れずにいた。お互いの無事を確認できて、ようやく安心した。
帰宅困難者になった日(3)
妻と連絡が取れて安心したのと、疲労とが重なって段々眠くなってきた。
同じ島の全員が体を伸ばして寝られるほどマットは広くない。上半身だけをマットに乗せて、下半身は毛布にくるんでマットの外に足を投げ出して寝ようとした。
なかなか寝付けずに、体を起して胡坐をかいたままうつらうつらしたり、また横になってみたりを繰り返した。そうしている間にも何度も余震に見舞われてその度に目を覚ましたりしながら、眠れぬ夜を過ごした。
朝6時近くになると、寝ていた避難者も少しづつ起きだして、段々賑やかになってきた。同じ島の人がたまたまauの充電器を持っていたので、借りて携帯の充電をした。
朝食として、災害対策用の乾パンが配られた。市の職員が一人一人に手渡して配り、全員に行き渡ったようだ。乾パンは4cm×6cmぐらいと、以前に食べたことがある乾パンよりも大きくて、6つに分割できるように切れ目が入っていた。久しぶりに食べた乾パンは硬かったけど、ほのかに甘みがあり案外おいしかった。できれば一緒に飲み物も配ってほしかった。
福島市内には伯母の家があり、歩いても行ける距離だった。前日の夕方、避難所に行く前に伯母の家に行くかどうか迷って、結局避難所に行った。地震の直後で、停電している中で家の片づけをしている所にいきなり訪ねて行ったら、迷惑だろうと思ったからだ。
朝になって避難者の一人が持っていた携帯用のテレビの映像を、高校のプロジェクタを使って体育館に大きく映し出された。ニュースや市の職員の案内で新幹線が12日中に復旧するかどうか怪しくなってきたので、もしも仙台に帰れなかった場合に泊めてほしいとお願いするために、公衆電話に向かった。親戚は快く承諾してくれて、もしもの時にはお世話になることにして、避難所に戻った。
11時半頃になると、昼食の炊き出しが始まった。行列に並んでご飯に野菜の汁をかけたどんぶりを受け取り食べようとしたところに、同じ島にいた男性に声をかけられた。
男性は、奥さんと娘さんとお孫さんと一緒に飯坂温泉に行こうとしていた途中で地震に遭い避難してきた。同じ島で話をしていたら住所が仙台市宮城野区幸町で、自宅の岩切と近いことが分かった。
その男性の息子さんが車で迎えに来たので、急遽、一緒に仙台まで乗せて行ってくれることになったのだ。同じ島にいた青葉区荒巻から来た男性と一緒に、ばたばたと避難所を後にした。
高速道路は通行止めだったので、国道4号を走って仙台に向かった。途中のガソリンスタンドでは給油待ちの車が行列をなし、二車線の内一車線をふさいでいる所が何ヶ所かあったが、それ以外は車は概ね順調に流れ、14時頃に東仙台駅の近くで降ろして貰った。
そこから岩切の自宅を目指して利府街道を歩いた。泊めてくれると言った伯母に連絡できずに福島を離れたので、途中のコンビニから電話したが、その時には固定電話網がダウンしていて伯母の家につながらなかった。何度か他の公衆電話からもかけてみたがつながらなかった。
結局、14日に直接伯母の家を訪ねるまで連絡を取ることができず、来るのかどうか、気を揉んでいたことと思う。
30~40分ぐらい歩いてようやく自宅へ着いた。玄関のドアを開けると妻のカバンがおいてあったが、駐車場に妻の車がなかったので、何か違和感を感じた。
とりあえず中に入ったが、散らかった部屋の中を見て唖然とした。サイドボードや台所付近の食器や、自慢だった電動コーヒーミル、結婚のお祝いにもらったダッチコーヒーのメーカーなどが床に落ちて、破片が散乱していた。
一通り唖然としたところで、トイレに入った。トイレから出た直後、玄関のドアが開いたと思ったら、妻が入ってきた。お互い顔を見合わせて驚いていた。
車に便乗して帰ることは、携帯の留守電にいれておいたが、きっと聞いてないと思っていたし、その時間に着くとも言ってなかった。妻に事情を聴くと、妻の実家と連絡がつかないので、職場に無理を言って様子を見に行ってきたという。一度、自宅に寄った時にカバンを置いて行ったのだ。
前日の朝7時に岩切駅まで送って貰って以来、約32時間ぶりに妻と再会できた。妻はすぐに職場に戻らなくてはならず、しばらく帰ってこれそうもないと言った。役場の職員では仕方がないと思いながら、妻を見送った。
帰宅困難者になった日(4)
東海地震が起きた時に、都内から自宅に戻れなくなる帰宅困難者や帰宅難民が多数現れるという話をよく聞くが、近いうちに高い確率で宮城県沖地震が起きると言われていながら、まさか自分がそんな立場になるとは思わなかった。
自宅に戻れないとわかった時に、自分が試されているような気がして、なぜだか妙に冷静で客観的に事態を見詰めている自分がいた。周囲にいた大勢の人間が、パニックを起こさずに冷静に対処していたから、自分も落ち着いていられたのかも知れない。
海外で地震やハリケーンなどの災害が起きた時に、暴徒化した市民が商店から商品を略奪する映像を時折目にする。帰宅困難者になった自分の目に映る光景は、まったく違う光景だった。
停電したコンビニで、整然と列に並んで買い物をする客。買い物以外の客に、店を閉められないと注意しながらも、必死に電卓を叩いて応対する店員。客も店員も冷静に事態を受け止めているようだった。
避難所では、多少自分勝手な避難者もいたが、毛布を譲ってくれたり、充電器を貸してくれたり、、炊き出しを差し入れてくれたり、車に乗せてくれたりと、お互いに周りに気を配り譲り合っていたと思う。
日本は色々と問題や矛盾を抱えている国だけど、そこに暮らす人々は善意に満ちた優しい人々だと思いたい。
毛布を譲ってくれてありがとう、充電器を貸してくれてありがとう、車に乗せてくれた幸町のアダチさんありがとう。皆さんの善意に助けられて、無事に自宅にたどり着くことができました。今回ほど、日本人でよかったと思ったことはありません。
避難所で一生懸命働いていた市の職員にも感謝します。公務員だから当たり前とか、対応や段取りが悪いとか批判する人もいるでしょう。でも市の職員だからという理由だけで、ひとたび災害が起きたら家にも帰れずに対応しなければならない立場に身を置き、今できることを精一杯やっていたと思います。
同じ島にいた東京から来たという男性は、新幹線が復旧しないまま今も帰れずに避難所にいるのだろうか?一日も早くみんなが元の生活に戻れることを祈っています。
*山小屋の*-温泉でほっこり♪ *栗駒山*スノーシューイング*
2月28日~3月1日はわかやなぎスポーツクラブ(WSC)のスノーシューイベント「*山小屋の*-温泉でほっこり♪ *栗駒山*スノーシューイング*」に参加しました。
いつもはWSC主催のノルディックウォーキングのイベントをインストラクターとしてお手伝いしているのですが、今回は参加者の一人としてイベントを楽しんできました。
今回のイベントはスノーシューイングを楽しみ、温泉宿に泊まり、おいしいワインと食事に舌鼓を打ち、素敵な音楽に耳を傾けると言う盛沢山の内容でした。
28日の15時頃、宿泊する栗原市の新湯温泉くりこま荘に到着。すぐに身支度を整えスノーシューイングに出発した。
かつて「いこいの村」があった場所も、今は建物が撤去されて何もなくなりました。
総勢約20名の老若男女がブナ林を目指して、歩き始めた。中には1か月前まで入院していたオーバー80の女性も「一度は体験してみないと」と言いながらみんなと一緒に歩いていました。
穏やかな天候の中をスノーシューイング。
最初はうさぎなどの足あとなど全くなかったのに、そろそろ帰ろうと戻り始めたところ、突然木の根元から隠れていたうさぎがとびだして雪原の中を走り去って行った。うさぎってあんなに速く走れるんだ!と思うくらいのスピードで、カメラを構えるいとまもなかった。うさぎが通った後には、さっきまでなかった足あとが残るのみだった。
宿に帰り、温泉で冷えた体を温めた後は、お待ちかねの食事。こちらは食事のメニュー。
しかもこの日は、先日までカフェを営業していたマスター持参の自然派ワインの会も同時開催。国産のワインを10種類、ブドウの品種やワイナリーの違いによる味の違いを味わいながら、おいしい料理を頂きました。
いなわの味噌田楽。頭から尻尾まで丸ごといただきました。
食事の後は、仙台市出身で伝統的な民族音楽のテイストをモチーフにみちのく魂を発信する「Sonid del Viento(http://sonidel.jimdo.com/)」の奏でるJAPANESE SOUL MUSICを堪能。初めて聞くけど、どこか懐かしい調べに拍手喝采で大変盛り上がりました。
3月1日は天候が不安視されたものの大きく崩れることなく、雪が舞う中を小一時間ほどスノーシューイングを楽しんで帰路に着きました。スノーシューイングの時間はちょっと短かったけど、温泉とワインと食事と音楽に癒されてきました。
スノーシュー De 二口峡谷
1月17日は「るんるん登山隊」のゲリライベントで二口林道でスノーシューイングを楽しんだ。
秋保ビジターセンターに集合したスノーシュー5人、クロスカントリースキー1人の合計6人で、姉滝の少し先まで往復約5.3km(Ambit測定)を思い思いのペースで歩いた。
今シーズンは例年より雪が多いという印象だったが、一度にまとまって降りはするが継続的に降らないので段々溶けてしまうのか、スノーシューイングを楽しむには若干雪が少なくて、道路の面が露出している箇所もあった。
それでも林道沿いにはこんな「たろひ」が出来ていた。
姉滝の展望台入口から雪に埋もれた階段らしきところを下って展望台に至ると、浸み出した地下水なのか、氷柱が育ちつつあった。
名取川の源流地点はまだ遠い。
奥に見える滝は妹滝、手前の水が落下しているのが姉滝。昔の姉滝は庇状に突きだした岩盤に開いた穴を通って水が落下していたらしいが、その岩盤が落盤して今の姿になったそうだ。
元来た道を引き返して、ふたたびビジターセンターまで戻り、そこで解散した。雪が少なくてちょっと消化不良な感が否めないスノーシューイングだった。
スノーシュー De 泉ヶ岳
1月12日は好天に誘われて、泉ヶ岳登山に出掛けた。
「てんきとくらす」の山の天気予報の登山指数は「風または雨が強く、登山に適してい」ない「C」だった。不安だったが、行けるところまで行って、無理そうだったら引き返すつもりで自宅を出た。
結局、予報通りの強風で舞い上がった地吹雪でトレースがかき消されている場所が多かった。多くの登山者が登頂を断念して引き返してきた。
中には登頂した登山者もいたが、「頂上は強風で5分もいられなかった」と言っていた。
私と妻もとりあえず水神までは行ったが、そこで引き返してきた。
コースは以下の通り、泉ヶ岳スキー場の駐車場と水神の往復でした。
天気が良くて、これで風が穏やかなら言う事なしだったのに。
強風で地吹雪が舞い上がる。
水神の碑。昨年の同時期は「神」の字が半分隠れていた。今年は雪が少ない?
下山後は温泉に入って帰って来た。機会があったらもう一度トライしよう。
スノーシュー De 五色沼
今年最後の更新になりました。
12月になって何度も寒波が押し寄せ、12月にしてはいつもより多い積雪量につられて、今シーズン早くも3度目のスノーシューイング。
1度目は12月20日に、スプリングバレースキー場から桑沼まで、NW仲間で「るんるん登山隊」隊長のNさんを案内してスノーハイキング。
2度目は12月24日に、栗原市蟹沢に設置してある歪計のデータ回収に行くために、現場で初めてのスノーシューイング。
そして3度目。年末の休みを利用して裏磐梯の温泉付きのペンションに宿泊することだけ決めて、具体的な計画は立てていなかったが、奇跡的に天気も良かったのでスノーシューで五色沼探勝路をトレッキングすることにした。
コースは裏磐梯ビジターセンターから裏磐梯高原駅のバス停まで約3.6km。ビジターセンターで積雪の状況などを確認してスタートした。
毘沙門沼から磐梯山がちらっと見えた。
毘沙門沼
雪上に点々と続く足あとのさきには……。
まさかの鶴ですか?
こちらは魔法使いのおばあさんか? 頭の形はエイリアンにも見える。
赤くないけど赤沼。
竜沼へと注ぐ沢
弁天沼のほとり。光と影の競演。
弁天沼から、簗部山、西大巓、西吾妻山を望む。
るり沼から磐梯山を望む。
青沼
柳沼。ゴールはもうすぐ、歩いた後はしっかりストレッチしましょう。
桧原湖ではワカサギ釣りの釣り小屋が浮かんでいた。
風もなく、穏やかな天候でゆっくりとスノートレッキングするには最適の日和でした。
振り返れば今年1回目の記事はスノーシューでしたが、今年最後の記事をスノーシューで締めくくることになりました。
来年はどこに行って、どんな写真を撮ってこれるか楽しみです。
来年もよろしくお願いします。
初冬の伊豆沼・内沼 朝焼けノルディックウォーキング
12月13日は、若柳スポーツクラブ主催の「初冬の伊豆沼・内沼 朝焼けノルディックウォーキング」に、インストラクター仲間のDちゃんと一緒にインストラクターとして参加した。
早朝5時30分に集合して、日の出とともに飛び立つ雁などの野鳥を見るという日本一朝早いノルディックウォーキングイベントに参加するため、3時半に起きて出かけた。
コースはおよそ8kmのショートコースとおよそ11kmのロングコースの2コースで、自分はロングコースを担当したが、諸般の事情により一部ショートカットし、実際のロングコースの総NW距離は9km(Ambit測定)だった。
集合地点の伊豆沼・内沼サンクチュアリセンター(鳥館)の駐車場で、Dちゃんのリードでウォーミングアップしてからバスでスタート地点まで移動した。
段々夜が明け始めた。
6時25分頃、スタート! 内沼の畔では空が白み始め、雁(鴨?)が飛び立ち始めていた。
ショートカットして伊豆沼へ。観察予定地点に着いたときには既に日が昇り、鳥たちも飛び立ってしまった後だった。残念!
しばらく休憩した後、気を取り直して再スタート!伊豆沼の畔に沿って歩き、一度内沼沿いの県道に出た後、再び伊豆沼の畔に戻って、ゴールの淡水魚館まで歩いた。
夏に伊豆沼を彩った蓮の茎
雪を頂いた栗駒山。白い建物は集合地点のサンクチュアリセンター。
8時45分頃、ゴール地点の淡水魚館に到着。自分のリードでクールダウンした後、バスで朝食会場のウェットランド交流館に移動して、朝食を頂いた。
朝食のメニューはお餅と蕎麦団子汁の郷土料理。沼エビの餅、ふすべ餅、ずんだ餅でした。その他に地元の蕎麦や蒲鉾をお土産に頂いた。
今年の若柳スポーツクラブのサポートは今回で終了です。また来年もよろしくお願いします。
函館に行ってきました
11月22日~24日の三連休を利用して、妻の両親の金婚式のお祝いに、義妹を含めて5人で函館に旅行してきた。
新幹線と特急を乗り継いで22日の12時30分ごろ函館駅に降り立ち、予約していたレンタカーを受け取って、五稜郭を目指した。五稜郭公園そばの駐車場にレンタカーを置いて、「あじさい本店」でまずは腹ごしらえにラーメンを食べた。函館といえば塩ラーメンが定番だが、メニューに背脂入りの塩ラーメンというのを見つけたので食べてみた。あつあつで香ばしい香りが漂い、うまかった。函館は仙台に比べて相当寒いだろうと予想して厚着していったのだが、意外に暖かくて拍子抜け。ラーメンを食べていると逆に暑いくらいだった。
ラーメンを食べた後はいよいよ五稜郭タワーへ。五稜郭は幕末に建造された西洋式の稜堡式城郭で、タワーから見下ろすと美しい星形をしていた。日が傾き始めた頃で、五稜郭にタワーの影が落ちていた。
五稜郭タワーの展望台から下りてきて、五稜郭タワー2階のイタリアンジェラート店「MILKISSIMO」でジェラートブレイク。ハスカップ、マロン、レアチーズフレーバーのジェラートに舌鼓を打つ。
その後、土産物を物色して、宿泊先の湯の川温泉へ移動した。
夕飯前に温泉に入り移動の疲れを癒し、部屋での夕飯を食べた。ふたが付いているのは鍋と牛肉の陶板焼き。ちなみに幼少の頃に海でおぼれた時に蟹に助けられて以来、蟹は食べないと心に誓ったので、蟹は食べなかった。しかもこの蟹は足が一本もげており虐待された形跡が認められる。なんともいたいたしい。
23日は午前中は大沼公園まで足を伸ばし、午後は函館市内にもどり元町付近を散策後、ロープウェイで函館山に登り夜景を堪能した。
ホテルの部屋から見える朝日を浴びた函館山
8時30分頃に函館を出発し、約1時間で七飯町の大沼公園に着いた。
大沼公園の駐車場のナナカマドの実。葉っぱは既に落ちていた。
大沼の北側には駒ヶ岳がそびえている。雪を被った駒ヶ岳を期待していたので、少々残念だった。
作家や作詞家、写真家などとして活躍する新井満が大沼に購入した別荘で過ごしながら「千の風になって」を日本語訳し、作曲したことから、「千の風になって」発祥の地としてモニュメントが建立された。新井満本人の「大沼の景観を壊さないように」という希望で、写真のようは円盤状のモニュメントが作られたそうだ。
昨年、一人で訪れた時にはノルディックウォーキングで大沼を一周したが、今回は高齢の妻の両親もいることから、歩きまわらずに遊覧船で大沼の景色を楽しむことにした。
遊覧船に乗っている時は、大沼と小沼を広く周遊しているように思ったが、GPSの軌跡を見ると意外と狭い範囲をちょっと回って見ただけだった。それなりに面白かったけどね。
大沼名物「沼の家」の団子を5人でつついた後、函館市内へ移動。函館に戻ってから函館ローカルのハンバーガーチェーン「ラッキーピエロ」で昼食にする予定だったが、函館へ向かう途中で「ラッキーピエロ峠下総本店」を見つけ、急遽飛び込んだ。
人気No.1メニューは鶏の唐揚げを挟んだチャイニーズチキンバーガーらしいが、せっかくハンバーガーの店に入ったのだからとホワイトクリームとミートソースがトッピングされた「函館スノーバーガー」をオーダー。ポテトとイカリングもついてかなりのボリューム。ホワイトソースでまろやかな味わいでおいしかったが、個人的にはもっとスパイシーな味が好みなので、次回は別のものを食べてみたい。
函館市内に戻って、函館山ロープウェイそばの駐車場に車を置いて、元町教会群を散策した。
以前から気になっていたのだが、消火栓と言えば赤い色と相場決まっているが、函館市内の消火栓はなぜか黄色なのだ。函館大火(1934年)をきっかけにアメリカの防災対策を参考に黄色にしたそうで、夜や大雪でも目立ちやすいそうだ。
元町教会群の函館聖ヨハネ教会
函館ハリストス正教会
八幡坂
カトリック元町教会
伝統的建造物として保存されている和洋折衷の町家
東本願寺と二重間坂
元町界隈を散策後は、ロープウェイで函館山に登った。函館山から駒ヶ岳を望む。
函館山ロープウェイ
16時前から展望台の手摺の前に三脚を立てて陣取り、日が暮れるのを待っていた。
日暮れ前の元町教会群
夕日を浴びる五稜郭タワー
暮れ始めると共に、ぽつりぽつりと街灯が街灯やネオンが灯り始め、様相が一変した。
暮れ始めた函館市内
夜景に浮かぶ五稜郭タワー
寒さに震えながら撮影し、展望台が混雑し始めた17時頃にはロープウェイで函館山を下った。ロープウェイの山麓駅に下りると、乗車1時間待ちの長い行列ができていて、早めに登って正解だったと思った。
24日はホテルを8時過ぎに出発し、トラピスチヌ修道院に向かった。
朝早い時間なので、観光客が少なくて静かだろうと予想していたのだが、修道院に着いたら数台の観光バスが既にとまっていた。外見では良く分からないが台湾か中国からのツアー客が大挙して押しかけ、静寂さのかけらもなかった。「静かに見学してください」との張り紙も日本語が読めない彼らには効果がなく、そこらじゅうで「いー、ある、さん、すー」の掛け声が飛び交い、「やんこやんこ」(山形の方言らしい)していた。
20分後、厳かな雰囲気とは無縁の修道院を後にして、赤レンガ倉庫街へ向かった。
およそ1時間、倉庫街をぶらぶらと見て歩いた。
倉庫街から函館山を見上げる。
路駐している車が多くて、折角の街並みもやや魅力減。
11時30分に函館駅でレンタカーを返却して、それから朝市でお土産を買った。朝市を何度も行ったり来たりしたあと、海鮮丼の店に入り、函館での最後の食事を摂った。うにの甘さといくらの塩加減が丁度良くておいしかった。
14時過ぎのスーパー白鳥に乗って、函館をあとにした。二泊三日の駆け足だったが楽しい旅だった。函館まで新幹線が開通したら、また行きたい。