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帰宅困難者になった日

東日本大震災の発生から4年が経過し、各地で開催された慰霊の行事のニュースを見ていて、ふと4年前の自分の事を思い出した。

地震の翌日、勤務先の福島市から自宅の仙台までなんとか帰り着いたものの、月曜日には車に布団を積んで再び福島の会社に戻り、そのまま4月の上旬まで泊まり込んで帰れない日が続いた。

仕事が終わって寝る前の短い時間を使って、記憶が新たなうちにと思って、地震発生から自宅に帰りつくまでの顛末を書き綴り、mixiの日記に投稿した。

今日、そのことを思い出し、久しぶりに読み返して、その時の記憶が蘇ってきた。

きっと、もっと大変な体験をした人も多いと思うけど、震災の記録の一つとして、当時のまま転載します。

 

帰宅困難者になった日(1)

3月11日の地震当日は、福島市内の会社にいた。

14時46分。マナーモードにしておいたはずの携帯から、甲高いビープ音が突然響いた。

携帯を開くと、「緊急地震速報」の文字が目に飛び込む。
そして「宮城県沖で地震発生 強い揺れに備えてください。」のメッセージを読んだ。

「え?」と思った次の瞬間、強い揺れに見舞われた。仙台市宮城野区の自宅で経験した、2008年の岩手・宮城内陸地震の揺れを上回る強い揺れに、「やばい」と思い、2階へ駆け上がった。

2階には経理の女性職員が一人だけで、部屋に飛び込むと「どうすればいいの!」と悲鳴を上げている。とにかく事務机の下に押し込んで、自分も近くの机の下にもぐりこんだ。揺れは強く長かった。収まりかけたかと思うとまた強くなり、波のような揺れに襲われた。

ようやく揺れが収まり、部屋の中を見渡すと、書棚が一つ、女性職員の机に倒れて引っかかっていた。倒れなかった書棚からも書類のファイルが床に落ちて散乱していた。

1階へ降りていくと手前の普段使っている事務所は多少書棚が移動したり、机の上の物が落ちたりした程度で、たいしたことなかったのかな?と思う程度だった。その奥の書棚や大型のプロッタが置いてある部屋を入ると、書棚から本や書類が落ちて散乱し、地形図を入れる2段重ねの大型のケースが傾いて、中から地形図が飛び出していた。ケースを載せていた鉄製の台は傾いて、4本ある足の1本が壁に突き刺さっていた。

物置に入ると2列に並べてあったスチールフレームの棚がねじれて倒れ、サッシのガラスを突き破らんばかりに傾いていた。

唖然としているところへ、外出していた社長が戻ってきた。電気も停まり、暗くなることを考えて、片づけは月曜日にすることにして、とりあえず自宅へ帰ることになった。この時点では新幹線は止まっているだろうけど、まあ2・3時間まっていれば何とかなるだろうと甘い予測を抱きながら、福島駅まで送って貰った。

福島駅に着くと、すでに駅舎は閉鎖されて中に入れない。今夜中に復旧しないと聞いて、ようやく事態の深刻さが飲み込めてきた。

今日はもう帰れないと分かった時点で次の行動に移った。携帯のバッテリーが心細くなっていたので、充電できる電池を求めて停電しているコンビニに飛び込んだ。最後の一個の電池を確保し、どこに泊ることになるかわからなかったので、飲み物とパン2個も一緒に買った。

コンビニ袋を握りしめ、今後の作戦を練るためにもう一度駅まで戻り思案していると、「避難所は第四小学校です。」と市の職員(?)がアナウンスしながら歩いていた。それを聞いて避難所に行くしかないなと思い、第四小学校に向かった。

避難所である第四小学校の体育館に入ると、すでに大勢の避難者がそこかしこに島を作ってうずくまっている。仕方がないので、適当に隙間を見つけて、自分もそこにしゃがみこんだ。外はまだうっすらと明るいのに、体育館の中は停電で照明が点かず、真っ暗だった。

やがてすっかり日が落ちた頃、市の職員から「橘高校は明かりが点くので、そちらに移動してください。」との指示があった。職員の誘導に従って徒歩10分弱の橘高校へ移動し、体育館に入った。

体育館ではマットやパイプ椅子を使って、いくつか島ができた。比較的早く移動できたので、すいているマットの一角に陣取った。次々に周りも埋まり、あっという間に一杯になった。まるで一つの筏に乗って漂流しているかのようだ。

 

帰宅困難者になった日(2)

橘高校周辺だけなのか電気は問題なく使えたし、当初は水も使えて、水洗トイレも問題なく使えていた。

しばらくすると、夕食として缶入りのパンが配られた。ただし、自分で食事を用意していない人が優先だったので、話の種に食べてみたかったが、遠慮して他の人に譲った。それでも避難者全員には行き渡らなかった。

またしばらくすると、今度は近所の住民から善意の炊き出しの差し入れがあった。でも数に限りがあるのでまだ食べていない人優先とのこと。まだ食べていないはずの人が炊き出しに殺到したが、入手できなくて戻ってくる人が多かった。

充電用の電池を買ったものの、もともとリチャージャブルな仕様の充電池で、容量が少なかったのか折角充電した携帯のバッテリーも再び心細くなっていた。妻や実家に何度も電話したがつながらず、電池があるうちになんとか連絡したいと段々あせってきた。公衆電話が無料で使えるというのを聞いて、避難所を出て近所の公衆電話を探しに行った。

周辺は電気が使えるため、コンビニも照明が灯り、食料を買い求める人で一杯だった。公衆電話にも行列ができていて、しばらく時間がかかりそうだったので、他の電話を探しにコンビニを出た。別のコンビニが目に入ったのでそちらへ向かって歩いていると、道路の向かいのマンションの入り口に公衆電話を見つけた。辺りよりもやや暗くて目立たなかったためか、誰も並んでいなかった。これ幸いと思い、道路を渡り受話器を握った。

多賀城市の実家には電話がつながり両親の無事は確認できたが、妻の携帯にはなかなかつながらない。何度もかけてみたがだめだったので、仕方なく避難所に戻った。

断水するというアナウンスもあったが、橘高校に設置されているタンクが空になるまで、トレイも普段通りに使えていた。

何度か毛布も配られたが、そのたびに避難者が殺到するのを見て、貰いに行く気になれずに座っていた。数が少ないので二人で一枚を使うように指示されたが、中には何枚も確保してしまう人もいた。かと思うと余分に貰ってきたから、と毛布を譲ってくれるひとがいたので、同じ島にいた3人で使った。

日付が変わる前に、最後のバッテリーに望みをかけながら、妻に電話をするとようやくつながった。バッテリーが残り少なかったので早口になりながらお互いの状況を話した。妻は町の職員なので避難者の対応に追われてやはり帰れずにいた。お互いの無事を確認できて、ようやく安心した。

 

帰宅困難者になった日(3)

妻と連絡が取れて安心したのと、疲労とが重なって段々眠くなってきた。

同じ島の全員が体を伸ばして寝られるほどマットは広くない。上半身だけをマットに乗せて、下半身は毛布にくるんでマットの外に足を投げ出して寝ようとした。

なかなか寝付けずに、体を起して胡坐をかいたままうつらうつらしたり、また横になってみたりを繰り返した。そうしている間にも何度も余震に見舞われてその度に目を覚ましたりしながら、眠れぬ夜を過ごした。

朝6時近くになると、寝ていた避難者も少しづつ起きだして、段々賑やかになってきた。同じ島の人がたまたまauの充電器を持っていたので、借りて携帯の充電をした。

朝食として、災害対策用の乾パンが配られた。市の職員が一人一人に手渡して配り、全員に行き渡ったようだ。乾パンは4cm×6cmぐらいと、以前に食べたことがある乾パンよりも大きくて、6つに分割できるように切れ目が入っていた。久しぶりに食べた乾パンは硬かったけど、ほのかに甘みがあり案外おいしかった。できれば一緒に飲み物も配ってほしかった。

福島市内には伯母の家があり、歩いても行ける距離だった。前日の夕方、避難所に行く前に伯母の家に行くかどうか迷って、結局避難所に行った。地震の直後で、停電している中で家の片づけをしている所にいきなり訪ねて行ったら、迷惑だろうと思ったからだ。

朝になって避難者の一人が持っていた携帯用のテレビの映像を、高校のプロジェクタを使って体育館に大きく映し出された。ニュースや市の職員の案内で新幹線が12日中に復旧するかどうか怪しくなってきたので、もしも仙台に帰れなかった場合に泊めてほしいとお願いするために、公衆電話に向かった。親戚は快く承諾してくれて、もしもの時にはお世話になることにして、避難所に戻った。

11時半頃になると、昼食の炊き出しが始まった。行列に並んでご飯に野菜の汁をかけたどんぶりを受け取り食べようとしたところに、同じ島にいた男性に声をかけられた。

男性は、奥さんと娘さんとお孫さんと一緒に飯坂温泉に行こうとしていた途中で地震に遭い避難してきた。同じ島で話をしていたら住所が仙台市宮城野区幸町で、自宅の岩切と近いことが分かった。

その男性の息子さんが車で迎えに来たので、急遽、一緒に仙台まで乗せて行ってくれることになったのだ。同じ島にいた青葉区荒巻から来た男性と一緒に、ばたばたと避難所を後にした。

高速道路は通行止めだったので、国道4号を走って仙台に向かった。途中のガソリンスタンドでは給油待ちの車が行列をなし、二車線の内一車線をふさいでいる所が何ヶ所かあったが、それ以外は車は概ね順調に流れ、14時頃に東仙台駅の近くで降ろして貰った。

そこから岩切の自宅を目指して利府街道を歩いた。泊めてくれると言った伯母に連絡できずに福島を離れたので、途中のコンビニから電話したが、その時には固定電話網がダウンしていて伯母の家につながらなかった。何度か他の公衆電話からもかけてみたがつながらなかった。

結局、14日に直接伯母の家を訪ねるまで連絡を取ることができず、来るのかどうか、気を揉んでいたことと思う。

30~40分ぐらい歩いてようやく自宅へ着いた。玄関のドアを開けると妻のカバンがおいてあったが、駐車場に妻の車がなかったので、何か違和感を感じた。

とりあえず中に入ったが、散らかった部屋の中を見て唖然とした。サイドボードや台所付近の食器や、自慢だった電動コーヒーミル、結婚のお祝いにもらったダッチコーヒーのメーカーなどが床に落ちて、破片が散乱していた。

一通り唖然としたところで、トイレに入った。トイレから出た直後、玄関のドアが開いたと思ったら、妻が入ってきた。お互い顔を見合わせて驚いていた。

車に便乗して帰ることは、携帯の留守電にいれておいたが、きっと聞いてないと思っていたし、その時間に着くとも言ってなかった。妻に事情を聴くと、妻の実家と連絡がつかないので、職場に無理を言って様子を見に行ってきたという。一度、自宅に寄った時にカバンを置いて行ったのだ。

前日の朝7時に岩切駅まで送って貰って以来、約32時間ぶりに妻と再会できた。妻はすぐに職場に戻らなくてはならず、しばらく帰ってこれそうもないと言った。役場の職員では仕方がないと思いながら、妻を見送った。

 

帰宅困難者になった日(4)

東海地震が起きた時に、都内から自宅に戻れなくなる帰宅困難者や帰宅難民が多数現れるという話をよく聞くが、近いうちに高い確率で宮城県沖地震が起きると言われていながら、まさか自分がそんな立場になるとは思わなかった。

自宅に戻れないとわかった時に、自分が試されているような気がして、なぜだか妙に冷静で客観的に事態を見詰めている自分がいた。周囲にいた大勢の人間が、パニックを起こさずに冷静に対処していたから、自分も落ち着いていられたのかも知れない。

海外で地震やハリケーンなどの災害が起きた時に、暴徒化した市民が商店から商品を略奪する映像を時折目にする。帰宅困難者になった自分の目に映る光景は、まったく違う光景だった。

停電したコンビニで、整然と列に並んで買い物をする客。買い物以外の客に、店を閉められないと注意しながらも、必死に電卓を叩いて応対する店員。客も店員も冷静に事態を受け止めているようだった。

避難所では、多少自分勝手な避難者もいたが、毛布を譲ってくれたり、充電器を貸してくれたり、、炊き出しを差し入れてくれたり、車に乗せてくれたりと、お互いに周りに気を配り譲り合っていたと思う。

日本は色々と問題や矛盾を抱えている国だけど、そこに暮らす人々は善意に満ちた優しい人々だと思いたい。

毛布を譲ってくれてありがとう、充電器を貸してくれてありがとう、車に乗せてくれた幸町のアダチさんありがとう。皆さんの善意に助けられて、無事に自宅にたどり着くことができました。今回ほど、日本人でよかったと思ったことはありません。

避難所で一生懸命働いていた市の職員にも感謝します。公務員だから当たり前とか、対応や段取りが悪いとか批判する人もいるでしょう。でも市の職員だからという理由だけで、ひとたび災害が起きたら家にも帰れずに対応しなければならない立場に身を置き、今できることを精一杯やっていたと思います。

同じ島にいた東京から来たという男性は、新幹線が復旧しないまま今も帰れずに避難所にいるのだろうか?一日も早くみんなが元の生活に戻れることを祈っています。